忘れ去られた、孤立した青春 cajun dance partyについて

そういえば、ブロックパーティなんていう名前の同じ、ukロックバンドがあったけれど、自分が、最近、聴き齧っているのは、cajun dance partyだ。現在、惜しくも、バンドは解散してしまったが、とても、良いアルバムを一枚だけ残して消えていったと思う。もう、ほんとに、青春の一時期しか、示せない、カラフルで爽やかな青春。それを、完璧に体現しきっていた。青春っていうと、独特の負け犬感とかのほうが、支持されるんだけど、ケイジャンは、まぁ、今風で言うと「リア充」的サウンドかもしれないと思う。俺は、そんなの関係なく、単に、良いって思ったのだけれど。

同時期に、フランツフェルディナンド、ブロックパーティとか、00年代初頭には、リバティーンズとかの「ロックリバイバル」の流れがあって、ケイジャンも、御多分に漏れずに、そういった類に入っていてもおかしくないのだけれど、そのほかのukロックとは、どこか趣が違って、いかにも、フツーかそれ以上の学校にマジメに通って、おしゃれして、青春をしていて、その延長線上に、バンドがある。そういうフツーなところ。それが魅力的だった。童貞とか負け犬とかメンヘラを「売り」にしがちなバンドの中にあって、ケイジャンは、独特の、文科系気質があって、それも、篤学向きの批評家筋に推された理由にもあると言える。ukロックという形式美を、それまでのジョイディビジョンとかスミスとかディオヘッドが背負ってきたような「人生の暗部」を描く世界観というよりも、ほんとに、「カラフルでキラキラした青春」って感じで、軽薄な部分もあるかもしれない。ただ、リリックは深読みすると、文学的だったりして、それが、「新しい世代感」を如実に示していたように思える。階級闘争に終始しがちな「ロック」ではあるが、単に、フツーの学生が、ハッピーに音楽をしているということ。それは、ロックに久しく欠けていた新鮮だった。

たとえば、アークティックモンキーズは、いかにも、ストリート感満載の若者のリアルなら、

ケイジャンは、どちらかといえば、そこそこの学校の、そこそこの優等生か、あるいはそれ以上の「文学気質」ってものがあって、人によっては、その中産市民感が、受け付けない人もいるだろうと思われた。実際、アクモンの方が「ウケ」が良いみたいだ。今や、ケイジャンは忘れ去られた「青春」のように、ぽつん、と一枚のアルバムを残している。

実際、ブラーとか、スミスのような、いわゆるミドルクラスのイギリス市民の若者が、文学的ともいえる歌詞にのせてロックしているところは、ちょうど、アメリカでヒップスターと揶揄されるようなものだ。確かに、ukロックのようなリフというかギターの刻み方はしているが、usオルタナっぽいテンションも感じる。

セックスとかドラッグよりも、どこかピュアでカラフルな青春群像劇をそのまま具体化したような、爽やかで明るいセンスがあったように思える。実際、メンバーの構成とか、当時、17歳という早熟さも合間って、とにかく、なにからなにまで、新鮮味、その一言であった。

ヴァンパイアウィーケンドをukロックに仕立て上げるとケイジャンの音楽になると思うのだけれど、そういうところが、本国でも、ある種の「嫌味」とかやっかみを感じる人も少なくなかったはずだ。

大抵、リバティーンズとか、baby shamblesなどオアシスなど、あるいはスミスのような「負け組のヒーロー」みたいなのが支持される。いわゆる「俺たちのくそったれな日々」の代弁者。

酒場で暴れたり、だらしのない日々とか、仕事をやめたりとか、「俺たちの兄貴」みたいなのが、絶大な支持のあるイギリスの国民にとっては、ヒットしなかったのかもしれない。いわゆる、文学が好き、アート好きなイギリス中産市民のツボを擽るような、批評家ウケするロックだった。実際、トムヨークもお気に入りと明言していたのは、記憶にある。

さて、そんなケイジャンだが、不良メンタリティの少ない横並びの日本人なら、よーく分かると思う。なんとなくフツーに生きてきたことのある青春を生きてきて、Jpop-rockを聴いてきた層なら、意外と、ケイジャンはウケるのではないかと思った。

ケイジャンの「カラフルライフ」は、誰もが、たまに、忘れられた青春を反芻するように、もう、古びた調子のレトロなラジオを、無理やりチューニングして、青春を擬似的に満喫することができる。そのbgmにケイジャンは、いかにも相応しいように思えた。

ちなみに、とっくの昔に解散した彼らだが、メインメンバーは、yuckで活動しているという。

My Side of the Ⅿatter

音楽 本 その他娯楽について たんなる日記みたいなもの

0コメント

  • 1000 / 1000