映画セッションについて 感想

才気溢れるドラマー VS 生み出すことにとりつかれた鬼教師 狂気のレッスンの先のラスト9分19秒―映画史が塗り替わる瞬間を目撃せよ! 監督・脚本:デイミアン・チャゼル  出演:マイルズ・テラー『ダイバージェント』 J・K・シモンズ『JUNO/ジュノ 』 提供:カルチュア・パブリッシャーズ、ギャガ 配給:ギャガ 


この映画は、賛否両論、あるいは、一方的な感情的意見のさ中に置かれながらも、尚、私は、個人的に、10年に一度の傑作であると、確信した。人生において、心に残る映画として、深く、突き刺さった。全ての、ジャズファンとは言わない。むしろ、音楽を、ただ聴くだけにせよ、向き合ったことのある人なら、絶対に、見て損はないということは言える。あるいは、ロックファンは見てほしい。

ただし、この映画に、「道徳」「倫理」「常識」あるいは「音楽理論・知識」という点で、審判を下そうというのなら、それは、おろかな審判であると言わざる得ない。別に、否定するな、と言っているわけではない。誰だって感想を抱いたってよい。私に強制することもできない。ただし、これだけは抗弁させていただきたい。「そういう見方ではセッションはつまらなくなる」と。

さて、見た人のほとんどが知っているし、いうまでもなく、シモンズ演じる、スパルタ鬼講師・フレッチャーは、クズである。笑

どんな国でも、そういった暴力・恫喝込みのパワーハラスメント的な指導方法は、あってはならないし、百害あって、一利あるかもしれないが、普通は、よくない。それは、「道徳的」にも「常識的」にもだ。物を分投げたり、当たったり、私怨をぶちまけたり、音楽を利用したり、あってはらない。そういった「師弟関係」を俺は、美化したいのではない。ここは勘違いしてはいけないポイントだと思う。そういった「歪んだ師弟関係」「教育現場の実情」を浮彫にしながらも、訴えるべきこの映画のポイントは、けしてそこではないと、言える。

勘違いしてほしくないのは、私や、周囲が「セッション」をほめるとき、別にフレッチャーのような「英才教育」を肯定しているわけではない、ということだ。この映画は、確かに、事実、行われているであろう、音楽業界の悪しき、歪んだ教育方法と現場の実情を物語ってはいるものの、重要なところは、そこではない。実際、マジメな人ほど、創作物としてそれを見ないで、「現実的な視点」で、こういったことは、ありえないと、映画の本質や筋書きを無視して、「教育批判」に終始しているのをよく見受ける。あるいは、音楽的な目線で、ニーマンなどの演奏を、まったくスィングないだとか、速さだけを追求して、バカスカ殴りつけるようなドラミングなど「ジャズの風上にもおけない」「ジャズの楽しみがない」と言った、音楽的な批判・・・

俺が思うに、目の付け所は、そこじゃないし、むしろ、この映画は監督の「自己批判的」な描写のひとつひとつであると俺は思っている。いわゆる、ここに描かれたエピソードは自伝的な意味合いでの、批判精神であって、視聴者は、ただ、その「愚かさ」を正直に描いているというところに着目すべきであると思っている。

「これほどまでに愚かな青春」をニーマンを通してフレッチャーも徹底的に、ラストまで演じ切っているところに、監督の「誠実さ」と「自己批判」を俺は感じた。監督はなにも、そういった「スポ根」「歪んだ師弟関係」を美化したいわけではないのだ。

男なら、一度は、通過儀礼としてやりそうな、「力任せのがむしゃら」「無鉄砲」「良心的な家族や、恋人への八つ当たりや、反故」・・・・・・

モラトリアム経験者なら、誰もが一度は、通ったはずの、そういったバカバカしさ。身に覚えがある。家族からの無理解で、お世辞にもキャリアの端くれにもなれそうもないミュージシャンや芸術家への道。そういった夢を抱いたことのある人間なら、一度は経験する、周囲への反発。皮肉。

重要なのは、それを、「批評的」に見る必要はないということだ。

そこに描かれた時点で、すでに批評的な精神が、作り手によって完結しているからだ。

我々は、そこを追求すべきではない。素人でも、ニーマンのばかばかしさとフレッチャーのくだらなさなど、百も承知である。

というか、冷静に考えてみれば、ちょっと冴えない気持ちだけは一人前のニーマンにしろ、鬼教師に意図的にキャスティングされているとも言えるのだが。

さて、フレッチャーだが、普段は、チャーリー・パーカーの「バード」の下りや、死んでしまった生徒について、感極まったり、辞職を迫られた末の、場末のバーでのニーマンとの邂逅でも「実際いいやつなんじゃね?」という、鬼の目にも涙あるいは、根はいいやつ、あの人も、教育者としてはサイテーだけど、やっぱり音楽好き、ジャズ好きなんだ、と「いわゆる師弟関係の青春物語」に当てはめようとする我々の欲望を、なんなく突き放す「クズ」なのだ。それは、最後の最後に、ニーマンを誘って、自分のバンドのステージに誘いだすところで、面を食らう。ニーマンも我々も。「え?」と。

ここで、発覚するのは、鬼は最後まで鬼であるということであって、巨人の星みたいなスポ婚、お涙頂戴で、最終的に親父と息子が分かりあうという、大団円にならないところにが好感が持てた。この映画の感動、カタルシスが、予想外のところに、落ちてゆくところにある。俺は、それを、素直に、サイコーと思ったのだ。では、どういったところが「サイコー」なのか、といえば後述。




そういえば、劇中、ニーマンは、自殺したと思われる生徒の真偽について、弁護士を介して、フレッチャーのスパルタな教育方法に問題があるのではないか? その証人になれないか、と詰められるシーンがあるが、ニーマンは、そのことを、しぶしぶ、言う形になる。

それを、フレッチャーは、ニーマンが「密告した」と思い込んでいる。本当は、ニーマンは、密告などしたかったのではなく、音楽で見返したかったはずだろうが。

少なくとも、ニーマンは、本来なら、フレッチャーに、「正攻法」で、認めさせようと考えたのではないか、と思っている。だから、シナリオ上、最終的には、そういった社会的制裁で始末をつけるみたいな終わりではなくて、あくまで、「音楽」で戦い抜く、向き合うという筋書きをとった監督に好感が持てた。

そこで、陳腐な「社会正義」に目覚めるのなら、その時点で、話は脱線してしまう。ただの、鬼教師復讐劇というステレオタイプで終わってしまう。監督は、そういった方法をとらなかった。

では、話の落としとどころだが、結局、ニーマンとフレッチャーという関係性が、「音楽」によって、昇華がなされた、というところがポイントであると思っている。

この作品のカタルシスは、けして「歪んだ師弟関係の美化」ではなく、努力すれば為せば成るのような、スポ根精神ではなくて、もっと学術的に説明するのなら、ラストシーンにおける、ニーマンとフレッチャーの「昇華」にあるのだと思ってる。

私怨をともに抱いた、実際は似たもの同士のフレッチャーとニーマン。

俺は、彼らは、いわゆる、心理学・倫理における昇華を果たしたのだと思ってる。

wiki 引用 →防衛機制の一つ。 社会的に実現不可能(反社会的な)な目標・葛藤や満たす事が出来ない欲求から、別のより高度で社会に認められる目標に目を向け、その実現によって自己実現を図ろうとすること[1]。 例えば、満たされない性的欲求や攻撃欲求を芸術やスポーツ、学問という形で表現することは、昇華と言える。


つまり、芸術、音楽の、本来の意義を、フレッチャーとニーマンは、最後の最後に「音楽」する。

文字通り、音を楽しんでいるというカタルシスを共有しているところが、果てしなく感動するポイントだと、俺は、感じた。

話の落としどころが、ニーマンとフレッチャーが、心の奥底から、トランスするくらいに夢中になっている。それに没頭して、共有している、ということ。

彼らは、音楽をする喜びと、カタルシスの中で、決定的に救われており、音楽をもう、ダシに使ったりはしない。互いに憎しみ合う関係が、音楽によって包まれてゆく。その瞬間の、カタルシス。

それが、観客にとっても、大感動なのであって、これを、復讐劇だとか、師弟ものとしてみるよりも、より普遍的な、人と人と根本的なつながりの発見にあるからこそ、これは、まぎれもなく、成功したと、思わざるを得ないでいる。

これは、音楽ファンは元より、人と人とのつながりの、感動の、再発見という意味合いでいうのなら、単なる「音楽系の映画」という枠を超えた、普遍的な名作に仕上がったと個人的には思っている。



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