グラントリノについて

妻に先立たれ、一人暮らしの頑固な老人ウォルト。人に心を許さず、無礼な若者たちを罵り、自宅の芝生に一歩でも侵入されれば、ライフルを突きつける。そんな彼に、息子たちも寄り付こうとしない。学校にも行かず、仕事もなく、自分の進むべき道が分からない少年タオ。彼には手本となる父親がいない。二人は隣同士だが、挨拶を交わすことすらなかった。ある日、ウォルトが何より大切にしているヴィンテージ・カー<グラン・トリノ>を、タオが盗もうとするまでは――。ウォルトがタオの謝罪を受け入れたときから、二人の不思議な関係が始まる。ウォルトから与えられる労働で、男としての自信を得るタオ。タオを一人前にする目標に喜びを見出すウォルト。しかし、タオは愚かな争いから、家族と共に命の危険にさらされる。彼の未来を守るため、最後にウォルトがつけた決着とは――? Eirin Approved (C) 2009 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.



実は、これは、今から、大分、昔に見た映画で、なぜか、ふと思い出しては、具体的な感想を示せずにいた作品だ。けれど、このたび、ようやく、自分の中で、消化できたのかな、と思えたので、書いてみようと思います。


まず一つ目の軸ですが、これは、戦争体験をもったアメリカ白人という軸があります。ここは、正直、日本の若者の気持ちでは、到底、理解もつかないような部分です。実際、作品でも、主人公のウォルトは、息子たちからも、嫌煙され、ウォルト自身も、戦争で、人を殺めた傷を負っているのです。

もう一つの軸は、我々にとって、親近感のあるもで、ウォルトの近隣住民であるアジア人家族がいて、タオというちっぽけな少年(今風でいうとちょっとヘタレなところのある)の成長物語という点です。

タオくんは、街のギャングの片棒を担いで、ウォルト爺さんのイカしたアメ車、グラントリノをパクろうとするのですが、それがきっかけで、ウォルトとの関係が生まれてゆきます。

現在の日本の状況で、「ご近所付き合い」というものは、とくに都心部ではリアル感のないところも、ピンとこなかったのですが、私は昔は近所のおじいさん・おばあさんとも交流はあったのですが、最近は、こういう「若者」と「大人」の二人三脚での成長ってものが、社会ではまったく機能していない現実があると思います。お勉強やスポーツの師匠はいるのでしょうが、人生の師匠みたいな交友が「成長」となって、なにか差し迫った状況に追われ、いわゆる通過儀礼を通して、モラトリアムを終え、「とりあえず大人」になってゆくというものは、羨望を抱く筋書きであると思います。

人々が、この作品をして、称賛に終始するのは、無論、ウォルト演じるイーストウッドの役者としての魅力もそうですが、ある意味、偏屈で頑固で嫌われ者ではあるが、「アメリカの負の歴史」を背負った大人として、若者に引導を渡す「生きざま」に顕れているのではないかと思うのです。

ウォルトの疎外感ですが、それは戦中~戦後のアメリカの実情と、いわゆる「古き良きアメリカ」を知らない若者や、無知な大人たちとのギャップがあると思います。彼らは、作中、ウォルトに一切の顧慮も見せないし、ウォルトもウォルトでなかなかうまく説明できずにいる(実際、あまりに重い出来事で、最後、自裁に近い行為を持ってしか処理できない)。

最初、私は、ウォルトの「自己満足」だと思いました。いわゆる朝鮮人、アジア人を実際、戦争で傷つけてきたウォルト自身の戦争体験から、「いわゆる白人の代表として」今は、どう、自分の体験と折り合いをつけようかと、死を念頭に、タオたちに引導を示す、すなわち、最初から最後まで、アメリカによる、アメリカのための、アジア人を利用した「自己満足」ではないか? と訝しんだのです。これは、私の個人的な感想ですが。

しかし、実際は、そうでしょうか? 

僕は、もしかしたら、こうした「ある意味わかりやすい筋書き」は、ミスリードさせるために、あるのではないか? と思えてきたのです。一見、そう見えやすいように、と。

我々の、無意識には、「差別意識」というものが、横たわっていると思います。このグラントリノを見るとき、どうしても、これは、「戦争」が裏のテーマに横たわっており、「白人アメリカ」と「アジア人」という分かりやすい構図にあてはめずに見ざる得ないのです。しかし、こうした選別的な見方というものは、むしろ、イーストウッドの仕掛けた罠のようにも見えます。

ウォルトは、むしろ、「個人」として、暴力の連鎖を止めるには、自分が向き合ってきた過去と決別するには、「法」と「良心」の元に、人を委ねる決意を、最後するのです。

レイプされたスーという娘に触発され、ウォルトは、意気揚々と、ギャングたちに立ち向かうことになりますが、そこで、自分もライフル片手に、「同じこと」を繰り返さないように、どうしたら、この「悲劇」の連鎖を閉じたらよいのか、ということ。

結果的に、ウォルトは、半ば自裁に近い行為をしますが、「殺されて」しまいます。しかし、ウォルトは、相手の暴力へ、「無力」というハッタリで、始末をつけようとするのです。作品の焦点は、ここで、けして「アメリカ人」と「アジア人」という分かりやすい構図の中で、イデオロギー的に解釈すること、批判することに正当性がないことに気付きます。むしろ、誘っているのです。我々、視聴者を、そのように、曲解するということを。いつでも、戦争や暴力は、そのような「偏見」によって、暴発するのです。

実際、イーストウッドほど、「アメリカ」を意識した人はいないと思います。硫黄島からの手紙にしても、戦争だとか社会派の印象の強い彼ですが、むしろ、「アメ車を代表とする古き良きアメリカ」に、果敢にも、非暴力で、自ら終始を打とうとする様に胸を打たれるのです。それは、古き良きアメリカを体現した「負」の部分を清算しようとする行為でもあります。これは、贈与の行為であると思います。


ウォルトは、今の人間には理解しようのない「理想」をも内包しています。彼はおいぼれですので、もうおじいさんとして、息子たちはさっさと老人ホームでよちよちと死んでいこうとするのを、望んでいますが、実際、ウォルトは、「他人に自分の人生を管理」させようとは、思いません。これを、老人の奢りと見るかは、かなり微妙ですが、ウォルトは、「自らの死」さえも、見据えて、生き抜こうとする、人としての理想を持っているのです。自分の命をコントロール下におくような「生きざま」など、くそくらえなのです。

そういったことも踏まえてみると、ウォルトは、たしかに堅気で偏屈なジーさんなのですが、別の視点では、戦争で命令のままに、自分の命も相手の命もコントロールしていた、自分への、戒めであり、覚悟でもあるわけです。これは、大変立派な、「アメリカンスピリット」だと、思います。イーストウッドは、そこを、伝えたかっただろうと思います。

最後、タオは、そんな彼の生きざまに打たれ、ボロボロになったスーと伴に教会に顕れ、ウォルトを見送って、その「古き良きアメリカ」を代表するグラントリノにのって、道路を滑走してゆきますが、イーストウッドの示したかった「アメリカ」というものは、あくまでの、暴力の連鎖を止めようとするメンタリィこそすなわちそれが真のヒロイズムであり、「本当の古き良きアメリカであり=グラントリノ」という記号なのだ、という主張だと思います。自分の命を差し出すという行為そのものが、人を生かしてゆく。それは、男としての、命を生み出す行為であると、私は思いました。

こうして、映画としてはタオは「成長」して、良きものは受け継がれてゆくものと思います。これは、「情報」を得ただけは容易に会得できるものではなく、私たち世代に、決定的に欠けた点であり、なにもかも他人やネットワークや社会になにかを預けて生きている人に訴える、「人としての」生きざまであることは、言うまでもないのです。私は、グラントリノからを通して、こうした生き方に憧れて負ぶさっているだけではなく、けして、これを忘れるべきではないと思いました。

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