蓮實重彦 伯爵夫人について

 偉大な行動や思想は、ばかばかしいきっかけで生まれる。街角やレストランの回転ドアから、名作は生まれるのだ。ーーアルベール・カミュ


 三島賞を受賞されたということで、話題をほしいままにして記憶の新しい、蓮實重彦の伯爵夫人。はっきり言って、評判は芳しくない。自己評では女性受けが良いとか、相対的な価値でしかないとか、冷静な意見を会見で述べていた蓮實氏・・・

 この作品は、分かりづらい。まず、なにが分かりずらいのか、といえば、この作風は、映画(作中では活動写真)と言われる表層のイメージで成り立っているからではないだろうか。フツーの心理小説とかアイデンティティの問題として読めない。

 彼の趣味は、映画鑑賞であり、批評の仕事もしているようだが、心理小説・心情小説的な読み方をしようと思っても、到底理解しがたいはずだ。映画的手法といえば、映像の長回しのように、表層の部分だけを見せてくるので、憶測が憶測を呼ぶ。我々は、要素から、この時代はいつで「伯爵夫人」とはいったい何者なのかを、最後まで漠然として掴めずにいる。

 冒頭の、「ただただ苦いだけで何の薫りもしない褐色の熱い液体を、誰もが珈琲と呼んで恥じる風情も見せなくなった」だとか「それにしても目の前の現実がこうまでぬかりなく活動写真の絵空事を模倣してしまってよいものだろうか」などと、リアル感のない現実が常に提示される。常に登場人物は、芝居がかった映画の引用だとか「お芝居」の要素を見せながら、虚構としての現実を演じている。あるいは生きている。そこは、作為的に示されているし、誰もが、これは映画の元ネタだ、と索引を知らなくとも、なんとなく察する部分だろう。映画の元ネタについては、私はよく分からないので、ここでは言及しないが、これも、一つの細工ではないだろうか? つまり、これはスノビッシュでコケティッシュなサービスとか嫌味とも受け取れるのではあるが、むしろ、そういう小細工を配置することで、小説の筋をわざとらしく寄り道させるということ。そういったことも、現実と虚構をいかにもごっちゃにしたような巧妙なトリックのように見えてならない。

 そして、伯爵夫人の「正体」を掴もうというのなら、「この世界の均衡が崩れかける」とまで言っている。これは奇妙な転倒であると思う。推理・サスペンスなら、この世界の真実や事件の真相に至ることが本義であるが、伯爵夫人の世界では、その正体をこそ暴こうなら、「この世界の均衡が崩れかける」という危惧につながるとされているのだ。

 作中の登場人物も、読者も、「伯爵夫人」に翻弄されるように意図して配置してあるのは、言うまでもなく、これは蓮實の仕掛けた罠なのだろうと思っている。別に意地悪な意味ではなくて、むしろ、活動写真的な表層の世界であること以上の「侵入」を拒んでいるのではないか、という仮説である。

 例えば、文学理論的な意味合いでいえば、F(認識)+f(抒情)という定式がある。夏目漱石的な把握では、そういう見方もある。しかし、蓮實は、夏目というより、近代文学者では、森鴎外を彷彿とさせる。鴎外は、「自己」を諸関係において配置しようとしながら、結局、「心理」だとかいった要素を描くことなく、苦痛としながら、歴史小説などを書いてみせる。(鴎外にとって、「自己」とは実体的ななにかではなく、「あらゆる方向から引っ張ている糸の総合である(中略)いいかえれば鴎外は「自己」を西洋人のように直接的・実体的に見る幻想をもちえないことを逆に苦痛にしていたのである《柄谷行人 日本近代文学の起源》)鴎外は、「侍」的人間の歴史小説で本領を発揮したようだが、蓮實は「映画」的人間の映像小説で本領を発揮したように思える。古井由吉をして、彼を肉感的な「うねり」と評するのなら、蓮實は映像的な「流れ」といったところだろうか。

 ヒューマニスム・人間心理の奥深さといったものを、まるでなかったかのように描く、文学の清新を見せてくれたともいえる。そこは、とりあえず成功していると思っている。Fだけの世界。認識といっても、蓮實的認識には、映画としての文字・表層だけの世界といったところだろうか。彼の文学批評精神は、そのまま創作に顕れている。

 蓮實は、そもそも、鴎外とは違うだろうが、「人間心理」など最初からかく気持ちなどさらさらない。これを、文学的な理解だとか抒情的把握として読もうとしても罠にはまる。読者の侵入を拒むように、文字は戯れている。それを読むというより「見る」。実際、映画的な描かれ方をしているので、見るように読むことだと思う。自然主義とか写実主義みたいな文学の系譜としてというより、蓮實は、こういった描き方を「映画」で学んできた人として、再現しようと試みたのかもしれない。あるいは、リアリティという世界の把握を、蓮實においては、自己と他者との関係だとか、セックスだとかで把握しようとせずに、「かろうじて」映画的な、映像的リアリティでなんとか保っているともいえる。こういった「映画」というものは、春樹にしても龍にしても似た趣を感じる。映画的なリアリティで現実との繋がりを回復しようとするというのは、今において、新しいわけではないどころか、ほとんどの映画好きの人ならピンとくるのではないだろうか、と思う。

 彼は文学など好きではないだろうし、文学ともできれば縁を切りたいと思っている文学になじみきれない文学者なのであって、それは鴎外とも、西欧文化を基にする自己や歴史というもので成り立つ「文学」に相いれなかった漱石と符合する。

 さて、内容・筋書きであるが、この作品の白眉とは、結局、伯爵夫人に、性的不能とされてしまった高麗(高齢?笑)の男(通称・お父さん)、インポテンツな男を心から愛す伯爵夫人という最後の方のシーンが、一番、気に入っている。生半可に読むとポルノ小説とか言えるのだろうが、実際、そこは、あまりに精神的な場面だ。結局、表層・映像的表現によって、むしろ、かえって「深み」を示そうとしたところはよかったのではないかと思う。

 文章表現については、日本では中上健次とか村上龍、もとをたどればフォークナーのような、ワンセンテンスの長い、びっしりとしたピリオドの遠い文章を描くが、それも、まぁ、蓮實の趣味であって、彼の性にあっているのかもしれない。だが、それも、今更、目新しいとはいえない。

 良かったところは、戦争表現を赤赤(この赤というのは重要)とした熟れたおまんことオーヴァーラップさせている下りだろうか。戦争というものを股間として捉えようという、ある種のフロイト的?なイメージを喚起させる。そう、おちんこもおまんこも戦争なのだ。意味不明という人はそれでいい。

 さて、戦争表現がコピーアンドペーストのように機械的に繰り返すフレーズがあるが、そういった音楽的な循環コードは小説では、珍しい。もし、「文学」なら、このような機械的記述はご法度だろうが、むしろ、今回に限ってはそれが美しいと思った。ただ、映画の想像力で戦争描写をしただけじゃないか、というのも作中で伯爵夫人に描かれているが、そういった人工的美がある。あるいは、「ぷへー」とか「ばふりばふり」といった音にも細心の注意を払っているところに、なにか、古井由吉や太宰を彷彿とさせるような「擬音」のセンスも光っている。

 この整然とした繰り返しの技術は、枯木灘でも、しつこいくらいに出てくる。ここも、蓮實の唯一リスペクトする中上への愛を感じさせるところだ。あるいはもし、フランス文学の文脈で、蓮實を捉えるのなら、ヌーヴォーロマン・アンチロマンの中にも系譜はあるのではないか。たとえば、ロブグリエという作家も「迷路の中で」という作品で、執拗に描写を繰り返す。ロブグリエにとっての世界の感触は「眩暈」「幻想」に見舞われているが、似ているところは多分にある。戦後のフランス文学の潮流にも敏感なはずの蓮實なら、そこらへんにもほんの少しの影響はうかがえると思う。

 この伯爵夫人という小説は、ひとつのココア缶のようなものであると思いたい。その物自体が勝手に物語るような、建築物。実際、伯爵夫人では、「物」へのこだわりや細工が随所に出てくる。そのココア缶の下りなんかも、「ツボ」って人は、この作品に悪印象を抱いた人でも多いのではないだろうか?この部分の達成は、成功していると思う。

 スーパーフラットなのに奥行きのある構築美というものが、いかにも「批評的作家」の職人芸と言わしめる。ただし、これが文学なのだとしたら、実際、「アクシデント」を楽しむというのも大事なのだが、蓮實は別に「文学者」ではないと思っている。かなりのアウトサイダーだ。ただし、純文学の王道とは、実際そういうものではないだろうか。筋書きのある小説とは通俗であるというようなアンチテーゼによって、話のない小説の生まれたところに、純文学というものが位置するというのなら、純文学とは、常に、既存制度への挑戦のはずだ。

 蓮實は、そういう点においては、老いてなお益々盛んといったところだろうか。ただし、作品は、ポルノとか変態の毀誉褒貶とは真逆に、EDの男を心から愛するという現実のような非現実的な夢のような、あるいは映画のようなロマンチックなものであった。退役軍人の不能の夫に嫌気がさして浮気をするような小説ではなかった。そこは、やはり、グッとくるポイントであって、訴求力もある。陳腐な言い方で言えば「純愛」といったところだろうか。女性ウケがよかったという彼の自己評も、ある意味では、女性の良心もまだ、どこかで生きづいているのかもしれないと、ささやかに希望の持てる次第であった。

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