映画 ハンナアーレントを見て
映画『ハンナ・アーレント』予告編
10/26(土)より岩波ホールにて全国順次公開
世界的スキャンダルを巻き起こしたナチス戦犯アイヒマンの裁判レポート
悪とは何か、愛とは何かを問いつづけた哲学者アーレント、感動の実話
※
この映画を見るとき、ただ一人のインテリ女性というだけで、なんだか、今はやりの「女性の英雄譚」を見せつけられるような気がしていた。「鉄の女」みたいな、女性は強いんだぞ!みたいなメッセージ?「女性強い説・神話」みたいなノリかなとね。無論、そんな作品ではないが。
もっとも、あのハイデガーとの「恋愛もの」として訴えていないし、実際、そこを膨らませたら以外と「面白い」と思うのだが・・・そこを売りにしてみても、「面白い」けれど、そこに焦点はない。まぁ、とっても硬派な作りになっている。
ハイデガーも出てくるが、話の核心にまで、そこまで入ってこない。結構、重要だと思うのだが、アーレントにとっての「ハイデガー観」が、たんなる「かつて愛した男」みたいなステレオタイプにしかなってない。
さて、いかにも戦後の女性解放・ウーマンリヴ的な、あるいはフェミニズム的な観点から、戦後の社会を、ナチズムの後始末に追われ、真実、愛、人間にとって、悪とはなにか(彼女にとっては、それは凡庸さにおける悪)と突き詰めてゆく「女性の生き方」あるいは「ジャーナリズム」「知識人の一生涯」としての観点からの見方も許容している気がする。
あるいは女性でなくとも、独りの人間がナチズムというものを「学問的」に追求していくスリリングで冷静な人生を感情移入して視聴するにも耐えている。
いわば、画面だけ撮ってみても、まぁまぁ面白い、けれど、やはり、そこには、「ナチス」「ホロコースト」「ユダヤ人」という難題について、視聴者は思案させられる構成になっている。
たとえば、アーレントは、アイヒマンを凡庸さにひそむ悪、もっといえば、アイヒマンは精神異常者ではない、狂ってるわけではない、むしろ、あの場にいたのであれば、もしかしたら誰にでも、そうなる可能性を秘めた、人間のささやかな悪意を嗅ぎ取ってみる。
それは、怜悧な現実認識であって、非常に啓蒙的である。アーレントは、「我々もまた同罪かもしれない」し、それによって、アイヒマンを処刑して、悪を一つに絞って、それで問題解決するという安易な勧善懲悪を跳ね除けようとする知性において、あらゆる誤解を受けることになる。
みな、「感情的」になっている。ユダヤ人にも「同情的」で、そういうときに、冷静にものごとをつきつめ、ユダヤ人、ドイツ人にも、ありとあらゆる構造的な、人間の普遍的な非・悪も見つめようとしたとき、アーレントは「ユダヤ人の心情に寄り添っていない」ということで、当然のように、罵倒される。アーレントの家に嫌がらせは殺到し、アーレントは女中とひっそり涙を流す・・・
アーレントは、所詮、学閥の人で、作中のハイライトで、大学の授業の一貫で講義をする。
悪の凡庸さという訴えを、学生たちは真摯に受け止め、被害者たちは、ヒステリックに掻きたてる。そういった対比の中で生まれてゆくのは、アーレントは、そういった状況でも、「あくまで学問的」にナチズムを構造理解しようとする。人間の普遍に帰っていこうとする。物事を心理学的な側面からとらえること自体が正解とは限らないにしろ、悪は凡庸さとして密かに存在するという示唆は、今なお啓発させらる訴えでもある。つまり、ドイツ人がユダヤ人の立場で、あるいはその逆でも、そんなことは、起こりえたかもしれないという発想。ドイツ人が鬼畜だったからとか、アイヒマンが特別くるっていたからとか、ヒトラーがいけないと言ってしまえば、「お手軽に」解決できてしまう、感情的な全体主義の構造までを腑かんし、アーレントはなんとか訴えようとする。
クルツという仲間は、その様を、人々への心情的理解から、学問的理解としてナチズムを見ようとしたアーレントを非難する部分があるが、アーレントがなにも「冷血」であったとは、とても思えない。無論、アーレントもインテリとして、知的好奇心というものが先だった部分も否定はできないだろうが。
いまや「知識人」「大衆」という構造で、社会変革をもたらしうるという構造を「神話」のようにありがたがっている状況は、薄れつつある。いわゆるオピニオンリーダーが社会変革を促すということ。しかし、テレビでは、コメディアンやタレントが先導を切って、大衆を導く「身近な女神」を希求している。知識人・大衆という構造は、今や、訴求力を失っている。しかし、アーレントが訴えるのは、あくまで知性・思考を絶やすことのない人が生み出せる想像力・冷静さ・ロジックを失わないことも大切なのであって、これもまた現代に通じる大事な要素ではある。
ホロコーストの事実というものは、誰にとっても心情体験で、感情的なものであるのは、当たり前であって、所詮、生き延びたものたちにとっては、「他人事」だから、学問的理解を示して、講義や論文を書くものが心的理解のない想像力のないクソインテリに見えたに違いない。
しかし、アーレントは、むしろ、だからこそ、他人事であったからこそ、戦後の状況から、ナチズムというものを、学問的、哲学的に、考察できるのではないか、という確信があったのかもしれない。
裁判の場面で、アイヒマンを前にして、被害者や関係者が映し出され、感情的な被害者たちや、あまりに苦しい現実を語る前に卒倒する大の大人たちを見て、それをアーレントは顔をしかめる場面がある。これが個人的に、一番、印象に残っている。おそらく、それを映し出し、見せつけることは、ますます「被害者」vs「巨悪」というステレオタイプに還元されかねない。テレビの「手法」なんてもので、このナチズム・ホロコーストを処すことを、アーレントのような知性は、許せなかった。なにせ、ものごとを「悲惨さ」において、訴えようとすることは日本でもドイツでもアメリカでも、どこでもなされる。「こんなに戦争はひどかった」「ナチスはこんなにひどかった」言うのは容易く、思うのは容易い。しかし、人が二度と、過ちを繰り返さないのは、歴史を怜悧に振り返り、思考を絶やさないことである。アーレントの一番のコアはそこかもしれないと思った。ひどいひどいと言い建てる、「お勉強」ばかりが幅を利かせているのだ。
アーレントは、そこから真実とは悪とは、というものを科学的に抽出したかったに違いないが、アーレントは性急な面もあったのだ。別に俺はハンナ・アーレントを偉大とは思わない。なにせ、未だに、彼女の本を読み漁っているのは、ほんとに「本の虫」みたいなやつらばかりだからだ。知識人・エスタブリッシュメントと自負する人間が実行力を失いつつある今、ここから学ぶべきところは大いにある。
そこには「アーレント神話」というものだけではなく、一種の批評性も介在する余地もあって、見るものに訴えるつくりになっていた。と思う。
0コメント