映画 偽りなき男 感想 注意:ネタバレあり
セレブレーション』『光のほうへ』などの名匠トマス・ヴィンターベアが、無実の人間の尊厳と誇りを懸けた闘いを重厚に描いた人間ドラマ。子どもの作り話がもとで変質者扱いされてしまい、何もかも失い集団ヒステリーと化した世間から迫害される男の物語は、第65回カンヌ国際映画祭で主演男優賞はじめ3冠を達成した。孤立無援の中で自らの潔白を証明しようとする主人公を、『アフター・ウェディング』のマッツ・ミケルセンが熱演。
配給: キノフィルムズ
オフィシャルサイトhttp://itsuwarinaki-movie.com
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『それは小さな女の子の話なのですが、彼女はその家の女中もう一人の女の子の傍に座りながら、なにか不安そうな様子をしているうちに、やがて不意に隣の女の子に平手打ちを食らわせ、そしてその理由を聞かれた時、意地悪で自分をたたいたのはあの子だからと答えました。その子のひじょうに真剣な様子からすると、でっちあげの嘘を言っているようには思えません。したがって、その子は誘発されなても人をたたき、しかもそのすぐあとに自分をぶったのはあの子だと説明して、明らかに他人の領域に侵入しているわけです。・・・幼児自身の人格は同時に他人の人格なのであって、この二つの人格の無差別こそが転嫁を可能にするわけです。こうした人格の無差別は、幼児の意識構造の全体を前提とするものです。(滝浦静雄・木田元訳『眼と精神』)引用終わり
マッツ・ミケルセン主演の映画「偽りなき男」の感想。
のっけから、引用だが、この映画を見て、端的な一説が思い浮かんだし、その引用がすべてを物語っていると思えたからだ。
こういった学術的な幼児への知識や、心理学に精通している人にとっては、幼児の行動というものを、あらかじめ、頭では理解できてたとしても、しかし、それが、現実的な対応として生かせきれるとはあまり思えない。ただ、参考程度に、ということだ。こんなことを、熱心に説得したとしても、「嘘」を「真実」とした人間にとって、そんなこと、関係はなく見えもしないのが大半だ。
マッツ演じる男は、園児を見る先生なのだが、面倒を見ている幼女に、「恋」をされているように見える。女児にとって、とくに、男は想像するのが難しいところもあるだろうが、ある種のマセた女の子にとっては、目上の男に恋心や結婚ということを、「現実的にありありと空想」するのだ。
大人の男は、それを「子どもの他愛ない空想」として、「将来仮面ライダーになる」とかそういった類としてしかとらえない。もちろん、マッツも、その女の子の恋心めいた好意に、「子供へする大人の対応」を当然したに過ぎない。落ち度は一見ないように見える。
そういった折、ある日、悪戯小僧が、どこからともなくやってきて、その女児に、陰部を見せたり、卑猥な行動をとってみせる。子供たちが、ちんちん、うんこ、セックス、おまんこといって、騒いでも、一見、なんの不思議もないのだが、それを、露骨に卑猥に、女児に見せる、「男の無邪気」が、トリガーになってくる。
女児は、大袈裟に言って、「心的トラウマ」を、その瞬間に受けたかのような状態に陥る。突然、「男の性」が、彼女に降りかかったとき、女児は、マッツ演じる先生こそが、わたしに「性的いやがらせをした」と、周囲の大人たちに漏らすのである。
これだけで、一見、支離滅裂で、どこにも、事実の検証というものが成されないまま、閉鎖的ないわゆる「村社会」だけで、憶測、噂が広がってゆく。やがて、物を売ってもらえなくなり、愛犬まで殺されてしまう。ただ、ひたすらに、ひどいの連続である。男の弁明「それでもおれはやってない」など、おかまいなしだ。もし、先生が、どんなにひどく冷静になったとしても、一度「ロリコン」だの「変質者」のレッテルを張られたら、集団の心理というものは、簡単にはがれることはない。そこに、事実など、ひとつもない。マッツも含め、周囲の人間たちもまた、子供たちも、単に「無邪気」だっただけだし、ひとりひとり弱いところを持っていた人間でしかなかった。特別悪人という人たちがいるわけではない。ちょっとずつの悪意が、行き着くところが、食人行動的な「生贄」というものを、生み出してゆく。何も日本だけではない。他人事ではない世界だ。
マッツ演じる先生も、離婚していて子供もいるのだが、職場の同僚とセックスしたりと節操もないところがあるが、実際、それを別の角度から見れば、「ただ、ひとり肉体的にも寂しくて、精神的に寂しい一人の男がいただけ」となるのに、女児の告発から、「野蛮人」「変態」のレッテルを張られる材料として、露呈してゆく。ここまでくると、最早、事実などどうでもよくて、嘘だけが一人あるきしてゆく。主人公マッツが「偽りなき男」だとしても、周囲からは、迫害されるものとなってゆく様が、ラストギリギリまで描かれてゆく。
ラストシーンが、白眉だ。ここからがネタバレだが、実際、そんなに驚くべきラストではなかった。
最後、マタギと思われる男が、鹿狩りをしてシーケンスへと切り替わってゆくのだが、その森の中に、マッツ演じる先生も居て、「まるで自分が撃たれたような錯覚」の中、話は収束してゆくわけだ。
ここで暗示されているのは、すぐそこにある衝動、あるいは悪意のようなもの、実際、狩りをするものにとっては、鹿狩りなど犯罪でも、なんでもない、ただの趣味かもしれないし仕事かもしれない。
そういった鹿も人間の影も、森の中にあってはささいな違いにすぎない、とくに狩る側にとっては、というホラーチックとも、教訓ともとれる暗示(もちろんこの解釈は、俺の解釈なので、どうとでも見える)で終わってゆく。
面白い映画・・・ではなかった。マッツが好きなら、マッツさん!って観かたもあるだろうが、ずいぶん、啓発的で教育的な示唆、暗示に富んだ作品であると思う。場合によっては、女児ではなくて、「女の恋心に答えられない男」への女児(女)からの、無邪気な復讐劇ともいえる。
閉鎖社会、フェイクニュース、子供への先入観、どれをとっても、あまりに救いない中で、男が「偽りなき男」であろうと奮闘する様は、一件落着?とも言えるような地点へ、一応戻ってはくるのだが、あまりスッキリしない。
一応、村人たちとは和解しているようにも見えるが、愛犬が殺されたことや、傷ついた心、自尊心は、そう簡単に帰っては来ないのだ。
では、これを見て、俺は、いったいなにができるだろう?と思う。
いつか現れる、狩猟者の前で、せめて、鹿と見まがわれないように、用心するしかないのだろうか?
それとも、事実を訴えるための弁論術(実際、なにかを思い込んでいる人間には、そんな簡単に効かない)でも鍛えるべきだろうか?
いずれにしても、業の深い、そして、ホラーより怖いサスペンスであったのは否定しない。
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