the nationalは2010年代のディケイド

decadeとは 10 年間、ロザリオ の一組という意味がある。

元スヌーザーのタナソウが次のように言っている。

「ザ・ナショナルが良くなかったことなど一度もない。しかし新曲が良すぎる。何の変哲もないようでいて計算されつくした緻密さ。しかも激ポップ。LCDのこともグリズリー・ベアのこともMGMTのこともフェニックスのこともダーティ・プロジェクターズのこともThe xxのことも忘れてしまいそう。」彼のツイッターでの呟き。



私は、ナショナルというバンドを兼ねてから存じていて、ハイバイオレットとかフェイクエンパイアとかの印象しかなかった。というか、実際、そこらへんが「脂の乗っている」時期なので、にわかの人にも印象深いのだが、新作の登場と伴に、私は、改めて聴きなおしてみたのだが、これがスンバらしい。

田中氏のツイートの意味は、多分にセンセーショナルで語弊の付きまとう「売り文句」ではあるが、言わんとすることはわかる。

所謂、「時代性」というやつを、the nationalは示すことに成功しているのではないか?ということだ。インディロックバンドというと、大抵、キャリアを重ねるごとに、「u2化」していく過程がある。

the nationalは、ポストパンクを基調にしながら、アメリカらしいルーツミュージックやフォークを融和させ、オーガニックな含みと大陸的な温かみをもって、ハイバイオレットで、「u2化」(個人的に俺は「羽化」と呼んでいる)に成功したと思う。アーケイドファイアはLCDと組んで、ダンスに走っていって今は、パロディとか悪乗りの雰囲気を醸し出しているけれど・・・

nationalは、時代を象徴するようなインディーロックアイコンの寵児に躍り出たのかもしれない。いわゆるディケイド化することに成功したように感じる。すくなくとも10年代という、なんとも言えない時代を表すバンドに成長したのだと思う。

インディー好きなら、ディケイドを感じるロックバンドは無数にある。90年代ならオアシス・ニルバーナ00年代に入ればレディオヘッド、アーケイドファイア、ストロークスなど、その「時代」のディケイドたちが存在するが、彼らを聴いているリスナーたちは、さすがに「飽きて」きていたのではないだろうか。さすがに彼らは解散したり、全盛期を過ごし、空白の地点に、我々ロックリスナーの耳の穴埋めに「LCDのこともグリズリー・ベアのこともMGMTのこともフェニックスのこともダーティ・プロジェクターズのこともThe xx」という存在があったように思える。

彼らは、その時その時を示した時代の「星」だったと思う。これらのラインナップなら、james blakeなんかも入ってくるであろう、彼らは、いわゆる「u2化」の方向へはいかなかったと思う。

the nationalは、アーケイドファイアが持っていたような、ディケイドを代表するような、大衆受けするような大きなバンドへと成長していったと思われる。先達はREМといったところだろうか。スタジアムを意識しているが、根底はアートロック・ポストロックという基盤を捨てずに、フォーク・ルーツ、なによりアメリカらしさってのを捨てずに、うまく成功したなぁと思う。これは、センスがないとなかなかできない。誰かが、どっかで、アーケイドファイアとウィルコを合体させたような凄みがあると言っていた気がするが、俺も個人的にそう思う。オルタナティブロックというものに、多分に興味を持っていて、アイデンティティを感じる連中にとっては、the nationalは救世主みたいなものだ。


↑the national fake empire

しかし、アメリカという国は、良くも悪くも懐の広い国だなぁ、と思う。

アメリカンイディオット!と叫び、「帝国」は偽りだと歌うことを許し、しかもそれがきちんとヒットする。日本では「意識高い系」というパワーワードで一捻りされる「意識」ってものが、ちゃんと、文化として、大衆に根付いているのか、いわゆる「国民性の違い」なのか、はたまた日本が遅れているのか分からないが(そういった文化後進国みたいな言い方はかならずしも当らない)、ただし、相対的に見ても、よい音楽環境なのだな、と思う。

こういうものが、大衆にヒットする文化ってのは、誰もが意識的に「社会」というものと向き合っていて、少なくともアメリカやイギリスでは、「個」と「社会」という歌でのレスポンスがまだ10年代でも効果を持っているのだ、ということだろう。

これが日本になると、どうしても密室系というかオタク系になりがちだ。いわゆるキミとボクのセカイ系というやつなのだが、これが良いか悪いかは別だ。俺は、少なくともそれが「日本」というのなら、否定はしない。とはいえ、こういった「連帯」の少ない状況では、「個」は必然的に追い詰められた場所から、特定の「個人」へ教祖化、あるいはカルト化、信者化しやすいっていう危険もある。実際、そうなっているし・・・笑えない事実だ。

密室系といえば、アメリカのインディだって同じところはある。いかにもマニアックでインディーっていう感じで、音作りだけを忠実に再現し、社会的な主張を極力抑えているバンドだって多い。the xxだってある意味セカイ系ではないか? 

ナショナルというのは、そういう個がたんに孤立して「趣味化」「細分化」してゆく中で、唯一、団結できるバンドとしてアーケイドファイアの後継を感じられるバンドになっていた。


the national vanderlyle crybaby geeksというこの曲の「合唱」が、バンドで起こるというところに、俺は久しぶりに〈希望と連帯〉を感じた。ちょっと政治的でもあるんだけどね。

かつて、何某哲学者だったかなんだったか謳った「宏大な共生感」といったものを、the nationalは示せたのだろうか。10年代には、個人は蛸ツボだったか、ガラパゴス化だとかいって、バラバラになって~ってのが通説みたいになってるけど。

なんというか、たんにみんなで歌ったというよりかは、非常に民主的でインテリジェントな人々の、左にも右にもいけない、いわゆる「アメリカの良心(いまや悪名高いリベラルってやつですよ)」っていうものを、体現しきった完璧なバンドだと思う。別のライブで、最後に、この vanderlyle crybaby geeksを歌うのだが、感動的だ。

sns世代あるいはミレニアル世代といった人々、自分もそこに含まれるのだが、手っ取り早く人々と繋がりたい目先のネットワークの「繋がり」ってのも窮極、俺には「行きづりの関係」に見えちゃうんだよね。はたまた依存というか。

バンドとかそんなインディーロック程度で、政治とか意識の連帯とか大袈裟だとは思うけど、the nationalってそういうのを軽々と救い上げて、受け皿になっているよな、と思いますね。

ますます今後も期待のできるディケイドバンド。そろそろ10年代も終わろうとしているが、彼らが主役であるのは、個人的に間違いないです。



ちなみに、新アルバムでは、the system only dreams in total darknessが良いですね。いかにも、「左と右に引きさかれた現状」って中で、どうしたらいいのか、っていう切実さを感じさせますね。別に現実のトランプ=アメリカとまで具体的にイメージしなくても、こういう「分断の時代」と呼ばれて久しい、我々の、所在ない意識と孤立からの、痛烈な叫びってのが、「ああ、やっぱロックってええなぁ」って再確認できる瞬間です。

別に、目新しさなんて求めてないんですよ。きっと、人々が生きている以上は、そういった言葉や感情のやり場を知らない人々ってのは無数にいて、俺は、そういう人たちの存在をポップソング程度で知れるだけでも満足ですね。

最後に、この動画のコメント欄からの引用で締めたいと思います。

「The way Matt sings the chorus gives me shivers and brings tears to my eyes for some reason」

My Side of the Ⅿatter

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