嫌煙時代の喫煙道中記
20代はマルボロの赤で歩んできたと思う。たまにラッキーストライクに浮気したり、ピースを吸ったりして休んでみたり。
煙草でメンソールは邪道だと思ってた。唐揚げにレモンをかけるのが嫌な人は分かると思う。ちなみに私は唐揚げにレモンをかけても食べれるが。
やがて、ポールモールに出会うのだが、結局、煙草っていうのは、「ロースト感」なのだな、と再確認した。
ポールモールは、どこでも置いているわけでもない。少なくとも、私の県境、西東京周辺のコンビニなどでは置いていない。
県を跨いで所沢に煙草ショップがある。新所沢駅スグの、古き良き?煙草ショップだ。そこには、いろんな煙草がある。煙管まで置いてある。煙草通のための煙草ショップだ。
煙草専門店というだけある。名前は、どことなく中国・香港を連想させる。そういったオリエンタリズムを感じるのもよい。
私が言いたいのは、煙草というものは、ほんとに「無駄」ということだ。
喫う意味が分からないという人は、この時代に本当に多いだろう。
私も、食事中に煙草を他人に喫われるのは嫌いだし、所かまわず、人の気持ちも知らずに煙草を吹きまくる人は、論外だ。たしかに煙草民のマナーに関しては、煙草を吸う身としては、気を付けていきたいところだ。未だに私は、親に煙草を吸っているところを見せたことがない。親は気づいているだろうが、やはり、私は親に申し訳ない気持ちもあるくらいだ。
それでも煙草というものは、大袈裟にいって、現代人や避けているような、無駄とか非効率とか暇つぶしとか寄り道とかを提示してくれる。
都会のとりとめのない時間というか空間というものを穴埋めするということ。
そういう点でいうなら安倍公房の言ったように、時間を吸っているという意見は一理あるのだ。
正直に言うと、社会が「健全さ」「正しさ」で窮屈になってゆくと、なんでも目の敵にされる時代であろうと思う。スケープゴートを、「健全な人たち」は探しているに違いなくて、私は、戦々恐々としている。たしかに、煙草は不必要で嫌なもので、人の気分を害する。
煙草を正当化するつもりもないが、ふと、煙草を吸っていながら、現代人が「排除したがっているもの」の中に、煙草のような不健全、臭い、キツイ、といったいかにも人間じみたことが、ささいな煙草にも詰まっているということに気づかされた次第だ。
さて、何が言いたいのかというと、こんな時代に煙草を吸い始めたい若人たちは、まずは、winston の赤い箱のやつから吸ってみたらどうか?ということだ!笑
まぁ、マジメに言うと、喫いはじめに困った大人になりたい男たちは、ぜひロースト路線の煙草で、入門編として意外とよさげなのは、winston cabin redだ。
これがコーヒーと合う。微糖なコーヒーとかカフェオレと合うということを、ここ数日発見した。マルボロがいかにもギザついた若者らしいサイダーみたいなものなら、winston cabinは、当たり障りのない優等生といった感じで、トゲがない。
もう少しで20代も終えるこの頃に、そろそろピースあたりのゆったりした煙草に変えようかと思っていたが、まだ若々しさも十分に残っている「中継ぎ」として、いい経過だと思う。
マルボロ→(ラキスト)(ピース)→ポールモール→キャビンといった経過が20代だった。よし、やめよう! と思ったが、なんか、結局、赤ちゃんみたいに口寂しさに苛まれる。
もともと甘いってことが好きでなかった。男といえば、いかにもそうだろうが、甘いと持たれるのだ。しつこい甘さというものが、個人的に苦手だ。
さて、電子煙草にいっそ切り替えるかと思い立ったが手間とお金、そして、意外とどこにも置いていないということで、いまだにコンビニで、陰気で汚い顔で煙草を買っている。普通に汚いおっさんだ。若いころはなりたくもなかったが、今になってよく分かる。
そして、この寒風のもと、イソイソと夜に繰り出しては煙草をモクモクしている。いまも吸っている。
煙草を吸ったくらいで大人にはなれないが、すくなくとも、「額面通りの大人」が体験できないような寄り道や、害悪でさえも、ときには、身体の恒常性を促すという役割というものがあるということを、煙草から知ることもある。
さて、だからといって煙草の「地位」なんて高くなる必要もないのだが、喫う人よ、同じ喫煙者として、ぜひとも、マナーなんかより「想像力」を以って、喫っていこうではないか。
道はまだ長いのだから。
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